結婚出来る保証

同時にこうした「アンペイドワーク専門家」としての専業主婦妻の働きがなければ、長時間労働で有名な日本の会社で夫が働くことは困難でした。その意味で専業主婦は「会社とは無縁」どころか、その長時間労働システムの強い援軍であり、その強力な歯車でもあり、会社の「隠し資産」のひとつといってもいいくらいの存在だったのです。従って、真の違いは、「働くか、働かないか」ではありません。見返りとしてお金をもらう働き方(これを職業といいます)をとるか、お金になる働き方をしている他人(夫)の下支えを無償で行い、代わりに生活できるだけのものを一部割り戻してもらう働き方をとるか1.同じ働くにしても、労働の対価のもらい方が違うのであって、どう働いた方が自分にとっては有利なのかの選択なのです。二者択一論の問題点は、もう一つあります。「働くべきか」「働かないべきか」の「べき」論で物事が語られがちなことです。どんな女の人でも必ず安定した収入のある男性と結婚できる保障があり、その男性がきちんと妻の「お金にならない働き方」に見合うものを、一生通じて支払ってくれ、また、そうした自分の働き方にどの妻も満足していれぱ、それはそれで他人が口をはさむことではないでしょう。コミュニケーションは大切です。問題は、今の社会の枠組みを、お金をもらわない働き方をする女性を標準にして設計してしまったために、こうした男性にたまたま恵まれなかった女性や、自分で「直接お金になる働き方をしたい」という女性が、いざ、自分でお金を稼ごうとすると、大変な面倒を引き受けなくてはならなくなっている現実です。

参考:結婚相談所 比較

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女性の幸福

女性の幸福のためには働いた方がいいのか、働かない方がいいのかというテーマは、女性の心の琴線にふれるものがあるようです。九○年代の今でも、新聞紙上には「男性に伍して働くより、家族の幸福を」といった専業主婦擁護論が、主婦の投書として何度も掲載され、そのつど外で働く女性から反論が寄せられています。しかし、今になってみると、こうした二者択一のテーマ設定そのものが、実は、一つの思い込みのもとに成り立っていたのではないかと思われます。例えば、「非人間的な会社の歯車になって働くより、家庭で家族の世話をしている方が人間的」という考え方は、専業主婦は「会社の歯車とは無縁」という錯覚にもとづいています。この世の中は貨幣経済ですから、お金がある程度はないと、食べるものさえ買えません。物々交換などの新しい経済システムにすべてを取り替えるような犬改革でも行わない限り、程度の差こそあれ、お金は必要不可欠なものなのです。専業主婦といえども、例外ではありません。それでは、専業主婦は、どうして食べていけるのか。簡単なことです。夫が代わりに、「会社の歯車」になって「非人間的」な働き方をしながらお金を持ち帰ってくるからです。一方、専業主婦は「働いていない」わけではありません。朝から晩まで、家族の生活を回していくために、お金にならない仕事に明け暮れているのです。また「働いている」女性の中にも、子どもを抱え、専業主婦とほぼ同量の家事や育児をこなしながら、お金になる仕事をしている例は少なくありません。男性でも父子家庭では同様の例があります。人々は、こうしたお金にならない仕事(主婦だけがやっている仕事ではないことから、最近は主婦業とは呼ばず、アンペイドワーク=払われない労働、つまり無償労働と呼ばれ始めています)と、お金になる仕事(ペイドワーク=払われる労働、つまり有償労働)の二つを様々に組み合わせて生きているわけで、専業主婦は、これらの多様なパターンの中で、アンペイドワークだけを特化して引き受けている特殊な働き方なのです。


参考:出会いがない 社会人

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結婚後女性は働くべきか

もう一つ、女性の近未来を考える上で重要なことは、「働くべきか」「働かないべきか」という二者択一の発想を捨てることです。これまで女性の間では、「働くべきだ」「いや働かない方がいい」をめぐって、何度も論争が起きてきました。有名な例が、一九五五年から盛り上がった「主婦論争」です。「婦人公論」に載った石垣綾子さんの論文を発端に、主婦労働は価値があるかどうかをめぐって、大きな論争になりました。女性は主婦として家庭におさまるのではなく、より創造的な仕事につくべきだ、との石垣さんの主張に、「主婦業も重要で創造的な仕事」との反論が寄せられました。ある論者からは、「会社に働きに出かけてその歯車になるより、結婚して家庭で家族の世話をし、命や暮らしに関わる家事に従事した方が人間的」との主張も出ました。八○年代には、ある女性史家が、女性が職場で使い捨てられている今の状況を変えるため、女性は職場から撤退すべきだ、と主張する「総撤退論」を発表しました。これに対しては、「自分でお金を稼がなければ食べていけない女性を視野に入れていない非現実的な論法」との批判が出ましたが、またしても「女性の解放のためには働いた方がいいのか、働かない方がいいのか」といった論議が蒸し返されたのでした。

参考:出会い系 サクラいない

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女性の結婚までの様々な働き方

これまで正社員で働いていた女性たちが、アルバイトや契約社員などの働き方に変わってほしい、と通告される例も目立っています。男性と同じに家庭をかえりみず、「バリバリ」働くキャリアウーマンのイメージとも、また、結婚までの時期を「職場の花」として男性社員に仕える、いわゆる「OL」のイメージとも異なる様々な働き方が広がっているのです。どの生き方も多数派を占められなくなりつつある中で、「普通」に自分を合わせていればすんだ時代は終わりました。多様な選択肢から自分が本当にしたいことを、自分の頭を使って懸命に選び取らざるをえない時代の入口に、皆さんは立たされているのです。知り合いのあるキャリアウーマンに、思春期の娘さんがいます。年頃で反抗期に入り、しばしば母親に食ってかかるのだそうです。なかでも反発の大きいのが、「普通」という言葉だといいます。「お母さんは何かあるとすぐに普通にしなさいっていうけど、あれはやめて」と怒られます。いまや実態のない「普通」を強制されるのは、娘からみれば「こうあってほしい」という母親の勝手な思い込みや願望を、「普通」という言葉にすりかえて押しつけているだけのずるい方法だ、というわけです。近未来を見通すためにはまず、「普通」という言葉に頼るのはやめましょう。大切なのは、「普通」か「普通でない」かではなく、自分は何がしたいのか、したくないのか、何ができ、何ができないのか、自分がしたいことに近づくには、何が必要か、なのです。

参考:結婚相談所 選び方

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結婚相手として避けたい人

結婚を、こどもを生む手段と考えた時代があったことは、そのぱあい、妻はこどもを生む道具でしかありませんでした。今日でも、それと似た結僻もないわけではありません。
結婚生活を、こどもを生み育てるための手段としか考えない結塒かそれです。このばあい、妻はやはり、こどもを生み育てる手段にすぎないことになります。
夫はこどもと、こどもの母親を認めても、妻は認めません。そういうばあい、結婚生活は手段にすぎず、そこに其の結婚生活がありえないことは明らかである、といわなければなりません。
男だけでなく、女にも、結婚生活を手段としか考えない例がみられます。もっとも多いのが、結婚生活を生きてゆくための手段と考えるばあいでしょう。
こういうばあい、夫は、たんなる扶養者またはかせぎ手としかみなされないことになります。結婚生活をこどもを生み育てるための手段としか考えない女性もあり、そのぱあいにも、夫は、たんにこどもの父親としかみなされないことになります。
家族の機能として育児があることは、まえに述べたとおりです。しかし、結婚は育児の機能をはたしさえすれば、それですむものではありません。夫は、こどもの父であると同時に夫でもあり、妻は、こどもの母であると同時に妻でもあってこそ、はじめて結婚生活が完全なものとなるのです。結婚を完全なものとしようとおもうなら、このじじつを忘れぬようにすることが重要です。
何であれ、結婚や結婚生活を手段としか考えないような相手は、できるかぎりさけるのが賢明だということになりましょう。
もうひとつ、結婚を手段としか考えない相手ほどではなくても、できるだけさけたい相手について、述べることにしましょう。それは、生活階層の差が大きい相手です。
現代社会が、階層の差を縮小させつつあることはじじつであり、いまさら階層をもちだすのは、いかにも古い感覚だと考えるひともいるかもしれませんが、現実の問題としては、やはりこの点を無視するわけにはゆきません。


参考:

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夫婦の問題

わたしはわかりきったことを書いている。あなた方はバカくさいというかもしれません。しか
し、ちっともバカくさいことではないのです。夫婦の問題は日常的な問題です。それは些末な問題
なのです。些末であるからもっとも重大な問題なのです。ある外国人の表現をかりれば、夫婦の
いっさいの事がらは、「重大な些末事」なのです。結婚とは小さな、とるに足りない事がらが大き
な意味をもち得る世界であり、小さな事がらが大きな意味をもち得る世界とは、「心理」が「事実」
よりもいっそう大きな力をもっている世界だということにほかなりません。こういう特別な心理
をここで細かに叙述する余裕はありません。多くの小説が、じゅうぶんにそれを描いていると恩
われます。

結婚の中心問題である性のことにふれておきましょう。性は男と女にたいして、その意味を異
にしています。女にとって性はあきらかに負担です。男と女とくらべて、性は女性にとっていっ
そう大きな意味をもっているのです。月経、妊娠、哺乳、育児lこれらはすべて性につながる
女の世界のできごとです。男にとっては、性とは欲望の満足であり、エネルギーの放出であり、
愛情のひとつの表現にすぎません。
コミュニケーションは非常に重要ですので、わたしはいつも考えるのですが、もしある種の動物のように、人間もまた雌雄同体であり、あるいはあるときは雄、あるときは雌であるというふうであったとしたら、性にたいする夫婦の観
念はまるっきりちがってくるはずです。とにかく一般的にいって、男性である夫は、性をシリアスに考えません。避妊とか妊娠中絶とかいったことについて、夫と妻との感ずる気もちはぜんぜん異っているでしょう。あるいはまた夫は、彼が男性であるがゆえに、妊娠中の妻の気持をぜつたいに理解することはできません。同様に多くの妻も、夫の性的欲望の強さや気まぐれをじゅうぷんに理解することはできないのです。夫婦というものは、異った生理と心理をもって、共通の性生活を体験しているのです。

参考:

027

夫婦の生活

夫婦の生活は分業の上になりたっているために、それは共同の世界をかたちづくると同時に、
またおなじ理由によってふたつの別個の世界という意識をつくりだします。その上、夫婦は男と
女なのです。多くの点で、あなた方二種の人間は、感じ方、考え方、表現のしかた、行動のしか
たを異にするでしょう。ふたりはふたりが異っているがゆえに結ばれているのだともいえるし、
異っているから永遠に結ばれ合えないのだともいえます。

たとえば、あなた方夫婦が夕食の食卓に坐っているぱあいを考えてみて下さい。わかりきった
ことですが、食卓にある食物は、直接には妻であるあなたの労働の結晶です。そして間接にはあな
たの夫の労働の成果です。だからといって、あなた方ふたりは、おなじ味覚をもって天プラなら
天プラを食べるでしょうか。その天プラはあなた方ご夫婦の分業の結果にはちがいありません。
けれども、あなたの夫は今夜の天プラを食うために今日一日働いたのではありません。ところが
一方、妻であるあなたは、今夜の天プラを食べるために、夕食前の幾時間か働いたのです。「今夜
の天プラは美味い!」というひとつの批評は、夫のぱあいと妻のぱあいとではちがうのです。今
夜の天プラは美味い、lあなたの夫がこういったぱあい、あなたの夫は、じぶんの一日の労働
の成果に対する批評をいっているのではありません。あなたの労働の成果について批評している
のです。しかも、それにもかかわらず、夫であるじぶんがかせいだ金によって、この天プラは元
来つくられ得たものなのです。

参考:

026

結婚特有の接し方

多くのぱあいlいや、大部分のぱぁい、あなたたち夫婦はいつのまにか一種のあきらめの心
理に到達するでしょう。そして、これが結婚というものなのだ。これが夫婦というものなのだII
あなた方は、ときどき自分じしんにむかってこう説明してきかせるでしょう。結婚の心理は時
間をかけて到達するあきらめの心理だともいえます。このぱあい、あきらめとは善い意味でも悪
い意味でものそれなのです。じっさい、あなたやあなたの夫が、いっさいのあきらめをダカッの
ように憎んだとしたら、あなたたちの結婚の過半はくずれさってしまうと思います。
あなた方ご夫婦はいっしょに生活し、日々接触しているわけですが、その接触のしかたには、
結婚特有のしかたがあることにお気づきでしょうか。それは、分業という接触のしかたなのです。
だが、分業という言葉を、ふつう、われわれは結婚生活については口にしません。そのかわり、
われわれはおぎない合うとか助け合うとかいった言葉でこれを呼んでいます。けれどもおぎない
合うとか助け合うとかいう言葉よりも、分業のほうがいっそう正しいように思われます。
気を付けましょう。
分業というものは、これを社会関係としてみれば、結合と同時に分離を生むものです。あなた
方夫婦は、日乾いとなむ生活のちがいのために、つまり分業のために、一方ではふたりはおぎな
い合っているのだと考えるでしょうし、同時に他方では、だから夫婦は別ものだという意識をも
つでしょう。もちろん、夫婦の生活が調和して行われているぱあいには、あなた方は分業の意識
をほとんどもつことがないかも知れません。けれどもひとたび、夫婦の間になにかの不協和音が
でてきたとき、あなた方はたちまちこの分業について意識するにちがいありません。あるいは意
識するばかりでなく、これを当然と考えまたは不当であると考えるでしょう。私だけが働いてい
る!俺はこんなにもアクセク働いているのに!といつたふうに。

参考:

025

結婚の心理

結婚の心理は、だから恋愛のぱあいのように、もっぱら愛情だけの心理ではないのです。むし
ろ、それはふたつのちがった習慣がどのように調和するか、または逆に反接するか、にまつわる
心理の問題だともいえます。ところで、やっかいなことに、ここに愛情というものが割りこんで
きて、これらの心理のうごきを支配しようとするのです。その意味で、結婚の心理は、愛情と生
活習慣とのたたかいだといえるかもしれません。

あなたは、なにかのはずみに、なんだってあなたの夫とこうやって結婚しているのだろう?
という深い疑問にとりつかれたことはありませんか。しかし、なぜ、こうした気持におそわれる
のでしょうか。結婚に目的がないからなのです。結婚には重要でかつ明白な目的というようなも
のはひとつも存在していないのです。たとえば、一定の職業生活と結婚生活とをくらべてみて下
さい。職業生活にはひとつの職務をやりとげるという目的があるの婿結婚生活には、そういっ
たものは何ひとつないじゃありませんか。

しかも、あなたは、あなたの夫となぜ結婚しているのかという疑問を瞬間心に思いうかべたと
しても、けっしてこの疑問にいつまでもかかずらっていることはないでしょう。かかずらったと
しても第一、それが徹底的に解決を与えられる問題ではないからです。そこでどうなるか?


参考:

024

結婚とはなにか

いったい結婚とはなにか?

結婚とはいままで生活(習慣)のちがっていた一対の男女が、もっとも密接な共同生活によっ
て、あたらしいlつまり、ふたりの共同生活に都合のいい生活をきずきあげてゆこうとするこ
とです。といったところで、このあたらしい習慣を、ふたりが意識して計画的につくりあげてゆ
くのではありません。大部分のぱあい、むしろ逆に、ほとんど計画的には行われないのです。
そこでじっさいのところ、結婚とともにはじまるさまざまの生活は、ちっともあたらしいもの
ではなくして、結婚以前に、ふたりが身につけていたものの延長ということになりやすいのです。
つまり、結婚とともに、あたらしい生活がはじまるのではなく、むしろ、ふるい生活が、いやお
うなしに修正され変更されてでてくるにすぎないのです。そして、それだからこそ、結婚におい
ては夫婦が適応しあうということが、もっとも根本的な問題になってくるのです。

じっさい、過去において身につけてきた習慣の力は、しばしば夫婦の愛情よりもいっそう力強
いものです。たとえばあなたの夫が、夜、窓をあけっぱなしで寝るとします。あなたはそれに抗
議するでしょう。そして、そのことで、夫の愛情をうたがうかもしれません。しかしこれは愛情
の問題でなく、本質的には過去の習慣の問題にすぎないのです。それにもかかわらず、いったん
この問題窓をあけるかしめるかという重大な些末事についてあなた方の意見かくいちが
うやいなや、それは途中で愛情の問題にきりかえられてしまい、必要以上に面倒なことになりやすいのです。


参考:

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